橋を渡った先は死しかない

躁鬱病を抱えた人間の日記。そのとき感じた気持ちを置いておく場所。

怖れを手放し、心の平穏を手に入れるには

なんとなく私の感性に合ってるかなぁと思ったので、ひきつづき水島広子ティーチャーの本。

アティテューディナルという、はなからうさんくさい感じの単語ですが、ページをめくってすぐのところに、「どれか一つでもピンときたら本書をお勧めします」とあり、『穏やかなこころを持ちたい』『これ以上人を恨みたくない』の二点が気になったので借りてきました。
図書館本です。
感想と、どんな本かを紹介をしつつ、自分語りをしながらすすめていきます。

でも躁状態(万能感マシマシ)で書いてあるので、フラットとはいえません。




⬛️アティテューディナルヒーリングとは
AHジャパン公式サイトから引用。

「心の姿勢」の選択
アティテューディナル・ヒーリング(AH)というのは、心の平和を唯一の目的とし、自分の責任で心の姿勢(アティテュード)を選び取っていくというプロセスです。

恐怖や不安、怒りや自責の念という感情にとらわれて「敵」のいる人生を過ごしていくのか、それとも、こういった感情を手放して無条件の愛を感じながら生きるのか、という選択は、個人の力で自由にできるという信念がその根底にあります。前者の心の姿勢を「怖れ」と呼び、後者を「愛」と呼びます。「怖れ」を否定するのではなく手放すことが、アティテューディナル・ヒーリング(AH)の中核です。

アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン[Attitudinal Healing Japan]


私は本を読みながら、『心の平和』を『心の平穏』と置き換えて読んでいました。
海外のヒーリングワークショップなので、『平和』と訳しているのだろうなと思うのですが、日本人の私は、『平和』と書いてあると『戦争』をイメージしてしまうので、ひっかかりをなくすため、わざと置き換えて読んでました。

これを書くために何度も本を読み、心の平穏を選択してゆく姿勢を選びとってゆける過程は、確かに私のなかで存在してて、実際に選択しようとしているんだな、と実感がわきました。

アティテューディナルヒーリング(AH)ってどんなのよ?って人は、本を読んでねというしかないのだけど、メモがわりに書いておきます。



⬛️ヒーリンググループ
グループって単語そのものが馴染みの薄いものだと思います。
ヒーリンググループで調べると、スピリチュアルな方面みたいですね。初めて知りました。

AHのグループは、超心理学とか精霊とかのスピリチュアルではありません。宗教でもありません。
AHのプロセスを作った人が、ひたすら宗教色を排していったもの、だそうです。
どのような国にいても、どのような宗教を持っていても、AHの提示する訓練やってけば、心の平穏が手に入れられる可能性がある!みたいな。

AHグループは、本で読んだかぎりだと、『繋がり』を感じるためのグループ……うーん…………日本人に馴染みがある単語だと……班?

グループには、班長のような人が存在します。
進行役ですね。AHでは世話役と表現しています。
とはいえ、進行役、もとい世話役の人もグループの一員。
世話役の人もグループの人も、皆、聴くだけでアドバイスしないこと、というのが決まりのひとつ。



⬛️AHは傾聴力だよ
冗長になるので本題ズバッといきます。
傾聴力を身に付けることです。
関係者が読んだら怒られる書きかただ。雑と言われてもしかたない。

私には傾聴力が欠片もなく、「相手の話をどうやって聞けばいいんだ…」と悩んでいたため、この本を読んでなんとなくイメージが掴めました。

傾聴力というのは、話を聞きながら何を言おうか悩んだり、こうしたほうがいいんじゃない?とアドバイスしそうになったり、そういえば自分はこんなときは…とか昔の自分について考えたりせず、めちゃくちゃ集中して相手の悩みを聞くこと。


本書のなかでは、「何を言おう…」「こうしたほうがいいんじゃない?」「そういえば自分はこんなとき」となる状態を、過去のデータベースを通していると表現しています。

つまり、相手の話を聞いているようで、その実、自分のことばかり考えてる状態。
意識が過去に戻らないよう、相手の話に耳を傾ける訓練です。
話を聞いているときは、データベースにいかないように、「話を聞こう。戻ろう。現在に戻ろう」と意識を集中してゆくことだそうです。



⬛️アドバイスをせず、自分の評価を下さない
AHではアドバイスはしない。
なぜならアドバイスというのは、相手からの評価を受け取って、さらに自分の評価を決定してしまうから。

話すだけ。聴くだけ。
傾聴ボランティアグループとか当事者会でもみかけるスタイルですね。
AHは傾聴がメインなので、話す人が主役ではなく、聴く人が主役。あくまで聴く人が『聴く力』の訓練をするそうです。


話を聞いていると、どうしても何か言わなきゃって気持ちになるので、相手の話に集中できなくなるから。それが主な理由。

それから、アドバイスというのがとても危ういものだ、といった側面もあります。


アドバイスを受けたときの心の動きは複雑です。
たとえばこの記事だと、猫背についての相談のあれこれを書いています。

あのとき相談タグを使った理由 - 橋を渡った先は死しかない

ここではすでに、私は猫背だという自己認識のもと、どうしたらいいですか?とアドバイスを求めているので、精神的な動きとしては、「このアドバイスを全部実行しなくちゃいけないのかな」となっています。


もっと精神的な揺らぎが大きなアドバイスとしては、こっちの記事かな。

crossthebridge.hatenablog.com

『思い悩むのは、「自分の才能が過小評価されているから」ですか? それとも「自分の存在を認めてほしいから」ですか?(以下略)』というアドバイスに対し、当時の私は過剰な反応をしめした。

今ならわかるんですよね。アドバイスをくれた相手は、ただ私がつらそうにしているから、「そんなにつらそうにしないで」と慰めたかっただけ。

けれども、相手は私に対し、「つらそうにしている」という評価を下しています。たぶん私は、「つらいままで書いていきたい」という望みがあったんだと思います。
つまり相手は「それはよくない状態」と決めているんですね。それと、「そんなあなたをみるのは自分がつらい」「つらい気持ちになっているのはよくない。こうしたほうがいいよ」と、つらそうな私を変化させたいってとこでしょうか……?


本書を少し引用します。

アドバイスには「そんなこと言われなくてもわかってる」というタイプのものも結構多くて、「それができないから苦労しているんじゃないの」という気持ちになりますよね。そうすると、できていない自分に対する罪悪感がもっと強くなるような気になるものです。

正直なとこ、私は私のままで生きてゆきたいのです。つらさを抱え、悶絶し、これが私だと受け入れてゆきたい。
これがプロセス。



⬛️プロセス
悩みの吐露に対し、人は「相手がつらそうだ。こちらもつらくなる。楽になってほしい」と反応しがち。
でも、アドバイスや手助けって、私自身の成長の妨げになってしまうんですよね。

今はまだ、つらさを抱える私のままで生きてゆきたい。つらさを抱え、つらさを手放すプロセス(成長過程)を妨げるの、AHにおいては、あんまりよくないよーという感じでしょうか。

つまり私は、「私は私のままで生きてゆきたい。つらさを抱え、悶絶し、これが私だと受け入れてゆきたい」という選択をすでにしている。

寂しい感情を受け入れる作業とアダルトチルドレン - 橋を渡った先は死しかない
Skypeとトラウマと私の悪いところ - 橋を渡った先は死しかない

形は違えど、怖れを手放し、自らの感情を受け入れたい、と私は選択をしています。



⬛️平和と葛藤の選択
平和だとやっぱりこれじゃない感ありますね。平穏に近い。

AHのガイドラインのひとつに、『平和と葛藤のどちらを選ぶか、怖れにとらわれるか手放すかは、常に自分で選択できることを心に留めておきます』というのがある。

今の私は、心の平穏ではなく葛藤を選択し、それでも怖れを手放す選択をする訓練のまっさいちゅうってとこかな…?
AHにおいて選択というのは、「選択肢が複数あるなかから選ぶ」じゃなくて、「自動操縦ではなく、自らハンドルを握る、あるいはボタンを押す」、でしょうか。
私はそういうふうに解釈してます。


本書から引用をしておきます。

例えば、ひどいことをされたら「もう一生ゆるさない」と思って生きていくというのも、ある意味、「ゆるさない自動操縦状態」になってるともいえますし、「あんなひどいことをされたんだから、ずっと怒っていて当たり前」というのも、ある意味、自動操縦状態なんですよね。

ゆるせないボタンを自分の意思で押してるのか、はたまたアドバイスに対する怒りの反応で勝手にスイッチが入っちゃったのか。
AHでは自分の心を穏やかにするのが目的です。穏やかにしたい人が、自らすすんでゆるさないボタンを押してるとは考えにくいので、これは自動操縦モード。
自動操縦モードではない方法もあるんですよ、というのがAHにおける『選択』です。



⬛️話を聴いているのはつらい?
AHの場で聴いているとき、もしつらさを感じた場合、『読み違えている場合がある』『読み落としている場合がある』そうです。
特に相手側ではなく、自分自身に評価を下してしまってつらくなってくるそうです。


本書の引用。

今こんな話をしていても、必ず今日の午後のグループで一人は「まとまらないと思うんですけど」なんて言いながら話始める方が絶対に出現します。

耳が痛い。私、結構な頻度でこれを言う気がする。『話がまとまらない自分』という評価をしてしまう。

めちゃくちゃ自分の話をして申し訳ないのだけど(ほらみろ。申し訳ないという自己評価してる)、コメントの話を再びします。

「なんとなく、渡橋さんのブログを読んでいると、こちらが辛くなってきてしまうのです」というの、たぶん私に対する読み落とし、読み間違いなのかなと思います。

相手は、「君はつらいままで生きていたいフレンズなんだね」、って受け止め方をせず、「つらいままでは(私が)悲しいよ」という思いを発信。
これまた他人へのジャッジになるんですが(ほらね…。相手も含めて自分を勝手に決めてしまってます)、私は相手に「つらいままで生きてゆくのが私です」と伝えたと思います。なにせブロックしたのでやりとりが残っていない。
そうして返ってきたのが、「深く入り込まれるのが嫌なら、言ってください。急激に距離を詰めて、親友面したりはしません」といったものです。
ほとんど省略してますが、おおよそ私に対する心配です。


今ならきちんと受け入れられます。
私もまた、相手に対する読み間違いをして、自分自身のことも読み間違えてたんです。
相手を通し、自分のなかに怖れの感情が反応してるのかなと思います。
私は攻撃された!と思ったのです。事実をつつかれて怖かったんですね。アドバイスに対し、「そんなこと言われなくてもわかってる」と攻撃してしまいました。
でもまあ生き物して当然の反応でもあります。逃避か闘争か。動物だって逃げるか攻撃するかします。本能です。


でも本当は、あのときの私は困っていたのです。

こんなことを言われるとは思わなかった。どうしよう。仲良くしたいのに。ブログに書いたのは自分の心を素直に表現しただけなのに。こんなはずじゃなかった。どうしよう。困った。誰か助けて。

こんな感じです。

相手の立場からすると、思いやりから発したメッセージで攻撃されて、「うわ。どうしよう。困った」ってなりますよね。
大変申し訳ないことをしたと思います。
それからこの本の感想記事ネタにしてるのも申し訳ないと思います。

とまぁそんなふうに、怖れというのは非常に厄介なものです。



⬛️怖れとは?愛とは?
再度、AHとは?の文章を引用してきます。

恐怖や不安、怒りや自責の念という感情にとらわれて「敵」のいる人生を過ごしていくのか、それとも、こういった感情を手放して無条件の愛を感じながら生きるのか、という選択は、個人の力で自由にできるという信念がその根底にあります。前者の心の姿勢を「怖れ」と呼び、後者を「愛」と呼びます。

大多数の日本人、「愛」がわからないフレンズ。
なので、日本語訳では「あたたかいこころ」としているそうです。確かに、こっちのほうがなんとなくイメージしやすいです。
基本的には、こころのあたたかさを感じない物事は、怖れのカテゴリーに分類するんだとか。

こうなると、めちゃくちゃ怖れのカテゴリーが増えてゆきます。
でもシンプルですよね。
自分の心がザワザワしてるときって、手足の感覚が冷たくなるような、なんだかそわそわしてしまう。まったくもって心があたたかくない。

自分には価値がないというのも怖れ。
もっと頑張らないとと思うのも怖れ。
不快にさせたかもと感じるのも怖れ。
相手に受け入れてほしいと思うのも怖れだろうな。
受け入れてくれなかったらどうしよう、って怖れが先にきてますしね。


ここまでくると、もはや常に怖れている気がします。
怖れていないときってどんなとき?となると、私だと、すごく集中して絵を描いたり文章を書いているときかな?

したい?してあげたい?どっち? - 橋を渡った先は死しかない

心が静かだった一日 - 橋を渡った先は死しかない

純度の高い喜びの感情表出と自己肯定感 - 橋を渡った先は死しかない

したい!と思ってやってるときって、とても心が静かです。雑音がほとんどない。
あと、「できたよ!みてみて!」「すごーい!ありがとう!」という、ややもすると幼い感情の共有は、とても心があたたかくなります。

まさに、怖れを手放し、無条件の愛を感じながら生きてる状態。
意外とできてるものです。気付かないだけで。
実際に選択しようとしているんだな、と実感がわいた理由もこのへんです。


ブログを書いているときも、わりと心が静かです。
例えばこの記事なんか、見知らぬ人に読んでもらう前提ではありますが、結局のところ自分のためにやってます。
色々な物事に関連付け、過去の記事を引用しているのは、あとで読み返すために他ならない。

「ああ。ちょっと前の私はこんなふうに思ってたんだな」とふりかえるのは、私の成長プロセスなんですよね。でも今はこう思う、と違う意見を書きつらねてゆくのは、昔とは違う怖れを手放しているからでもあるし、もちろん逆もあります。また怖れを抱え込んでしまってるかもしれません。

けれど、他人からあれこれ言われないので、好き勝手やれるんですよね。



⬛️さいごに
AHの入門ワークショップでは、参加者にカードを配るそうです。
基本のカード、その一部だけ書いておきます。

「私がほしいのはやすらぎだろうか、それとも葛藤だろうか」

自問自答させるカード。いかようにも解釈できるので、なんだかタロットみたいです。
実はこのカードが、生活のなかで訓練するために有効なんだと思います。AHが提言するカードにより、思考の癖を変化させてゆく。

図書館本なんですが、このカードを読むために買いたいなぁと思いました。
地方でも入門ワークショップが開催されているので、参加するのもありといえばありなのですが、何度か読みこみたい気持ちがあるので、個人的には図書館で読んだあと、購入検討してみたらどうかなぁといった感じです。

『自己肯定感、持っていますか?』でも書いてありましたが、「共感と共鳴」についても本書で触れているので、あわせて読むと興味深い発見があります。

そのカードってなに?いくつかあるの?内容知りたい!と思ったかたは、ぜひ手にとってみてください。2008年初版なので図書館にあると思います。